土肥金山の歴史

土肥金山は、江戸時代に第一期黄金時代を明治時代から昭和にかけて第二期黄金時代を迎え佐渡金山に次ぐ生産量を誇った伊豆最大の金山です。推定産出量は金40t、銀400t。

金山は昭和40年に閉山し、その後は観光坑道として利用され、現在は江戸時代の採掘作業の風景を等身大の電動人形が再現をしています。また、金山資料館「黄金館」には、金山に関する貴重な資料や鉱石などを展示してあります。

また平成17年7月に200kgの巨大金塊を250kgに更新。ギネスにも認定され、世界一を奪取致しました。250kgの世界一の巨大金塊を黄金館にて一般公開しております。

歴史的背景

  • 建徳・文中・天授(1370年代)の時代、足利幕府直轄の金山奉行が土肥を支配し、盛んに金を掘ったのが土肥金山の始まりと伝えられる。
  • 天正5年(1577年)土肥の大横谷、日向洞、楠山、柿山、鍛冶山等五ヶ所を開発、この頃より土肥の金山が本格的に採掘される。
  • 慶長6年(1601年)徳川家康が伊豆の金山開発に力を注ぐ。
  • 慶長11年(1606年)幕府金山奉行大久保石見守長安が伊豆の金山奉行も兼ね、掘削方法、水抜き方法等の新技術を導入し産金量を増大させたので、土肥の金山は隆盛を極め、街には人家が軒を並べ、土肥千軒と称したと云う。
  • 慶長18年(1613年)大久保石見守長安が没し、伊豆金山奉行は市川助衛門となるが、元和六年(1620年)に没するやその後、土肥の金山は衰退し寛永2年(1625年)には休山となる。
  • 明治39年(1906年)神戸の実業家長谷川氏が外国人技師を招へい探鉱を行い成功する。
  • 大正6年(1917年)長谷川氏が発起人となり土肥金山株式会社を設立。
  • 昭和40年(1965年)鉱量枯渇のため閉山する。
  • 昭和47年(1972年)社名を土肥マリン観光株式会社に変更し、坑内の一部を観光坑道として整備し、一般観光客に公開している。

 

土肥金山は、江戸時代に第一期黄金時代、明治から昭和にかけて第二期黄金時代を迎え佐渡金山に次ぐ生産量を誇った時代もあった。
昭和40年に鉱量枯渇のため閉山した。閉山までの掘削坑道の総延長は約100km、深さは海面下180mに及ぶ、この間の推定産出量は、金40t、銀400tである。その後観光鉱山として再生し現在に至る。金山には観光坑道とともに資料館「黄金館」や「砂金館」が併設され観光客の人気を博している。金山および付属施設をご理解頂くために先ず歴史的背景を振り返ってみる。

長安は鉱山の知識が豊富で、西洋から学んだ最新の採掘法や製錬技術(アマルガム法)などを駆使して従来の鉱山技術を一新した。
長安が金山奉行となってからは佐渡金山や石見銀山からは湧き出るごとく金銀が産出したとある。土肥金山もまたこの時代、長安によって開発が進み産金量が飛躍的に増大した金山の一つである。

NHKの大河ドラマ「葵徳川三代」が好評であるが、ドラマの中で二代将軍秀忠をただ一人支えるのが大久保忠隣(ただちか)である。金山奉行として江戸初期の金銀鉱山を飛躍的に発展させた長安は大久保忠隣の配下で大久保の姓をもらっていた。

長安は、もともと武田氏の猿楽師大蔵太夫新蔵の次子で幼名を籐十郎と称した。父は信玄の家臣土屋右衛門尉直村から土屋の姓を与えられ新之丞と称した。武田氏滅亡後、藤十郎は父の職を継ぎ、猿楽衆金春太夫として家康に仕えた。後に家康に推挙され、その重臣大久保忠隣の側臣となり大久保の姓を許されて大久保十兵衛長安と名乗るようになった。

慶長8年秋、長安は従五位下に叙せられ、石見守という受領職を授けられ、以後大久保石見守長安と名乗った。

一説には、足利三代将軍の頃1370年代に、土肥で盛んに金銀を掘り出したのが始まりとも言い伝えられている。
土肥金山についで、瓜生野(うりうの)金山、湯ヶ島金山、縄地金山が発見され、これらを含めて伊豆金山と称されていた。
土肥金山の発見は詳らかでないが、一般に天正5年(1577年)北条氏の配下である富永三郎左右衛門政家の手代市川喜三郎が、土肥大横谷・日向洞・柿山・鍛冶山・楠山などで本格的に金山の開発を行ったのが始まりといわれている。
天正18年(1590年)北条氏は豊臣秀吉の小田原城攻めにより滅びるが、その際、伊豆の金山も秀吉の水軍に蹂躙され荒廃してしまった。
その一方、伊豆の地は、この年豊臣秀吉によって関東へ移封された徳川家康の知行となった。
関ヶ原の戦いで勝利した家康は財政を賄うために積極的に金山の開発を進めることになる。

慶長6年(1601年)家康の命を受けた家臣の彦坂小刑部元成が伊豆の金山奉行を拝命したが鉱山開発にあまり功績を残さなかった。

慶長11年(1606年)全国金山奉行の大久保石見守長安が伊豆金山奉行を拝命して本格的に伊豆金山の開発に力を注いだ。
伊豆の諸金山は長安の導入した新技術によって生産量を飛躍的に増大させた。
特に土肥金山は立地条件がよく、周辺の金山からも鉱石が集約されて大いに繁栄した。

慶長12年(1607年)、家康は大御所として駿府に移り、ここから江戸の二代将軍秀忠を通じて全国の諸大名をコントロールすることになるのであるが、この時代の家康の財政を支えた慶長大判小判は、対岸の土肥金山から駿府まで船で直接搬送された金で鋳造されたものである。
その意味では土肥金山は、当時の家康の財政を賄った大変重要な金山として位置づけられるのである。

土肥金山は大久保長安によって発展したが、それ以前の鉱山の採掘法といえば、露頭直下の山腹に抗口を開け斜めに地下の富鉱部を求めて掘り進み、最後は湧水により採掘を中止するという単純な採掘法であった。長安は山腹の下部に横掘坑道(立入)を掘削して金鉱脈に着脈させて鉱石を掘る横掘法や坑内の湧水を排出する水抜法等の新技術を導入して産金量を大きく増大させた。

さらに、慶長14年(1609年)、キリシタン宣教師たちによって水銀を使うアマルガム金製錬法の技術が導入されて、金の実収率が飛躍的に改善された。このように土肥金山は、大久保長安によって隆盛を極め第一期黄金時代が形成された。

家康に認められてから、優秀なテクノクラートとして次第に実力を発揮し、徳川初期の財政を一手に支えたほどの貢献をした大久保長安ではあったが、慶長18年(1613年)に没すると、莫大な不正蓄財や幕府転覆の嫌疑が掛けられ、お家断絶、7人の子供はみな死罪に処せられた。

これは当時の2大実力者大久保忠隣(秀忠側近)と本多正信・正純父子(家康側近)の対立に巻き込まれ、その犠牲になったものとみられている。
大久保長安の没後、金山奉行は市川助衛門尉に替わり生産が続けられた。

元和6年(1620年)市川助衛門尉も死亡、半世紀に近い49年間にわたり隆盛を誇った土肥金山も次第に廃れ、宝永2年(1625年)休山となった。家康時代の第一期黄金時代を経て後、再開発の作業がたびたび試みられているが、記録に残るような成果はなく明治に至った。

明治39年(1906年)神戸の実業家長谷川銈五郎がヨーロッパの技術者を招き探鉱を行って開発に成功すると、土肥金山はその名声を一段と高めて第二期黄金時代を築いた。長谷川氏は、大正6年(1917年)に企業形態を土肥金山株式会社に改め、金山の開発、操業のために最新式の機械と新技術を導入して、高品位鉱の効率的な採掘を行った。さらに、銅製錬に欠くことのできない珪酸鉱の長期売鉱契約を住友鉱業(株)の別子鉱業所と結び、土肥金山を本邦第二位の金山にまでその地位を引き上げた。このように長谷川氏は、長安とともに土肥金山発展の歴史に欠くことのできない偉大な人物であった。

昭和6年(1931年)長谷川氏が亡くなると、土肥金山(株)は住友鉱業(株)の資本を導入し、昭和17年(1942年)社名を土肥鉱業株式会社と改称して昭和22年(1947年)までその系列下にあった。

昭和22年(1947年)住友の系列を離れて独立して、周辺探鉱に力を注ぎ、土肥の中心を流れる山川以北地域の開発も行われたが、次第にその生産量を減少していった。

昭和34年(1959年)、三菱金属株式会社(現三菱マテリアル(株))が経営に参加したが、高品位鉱の鉱量枯渇と、固定価格制度による金の廉価格(660円/g)に抗しきれず、昭和38年(1963年)採掘を中止しついに昭和40年(1965年)本邦有数の金山として君臨した土肥金山は閉山した。

昭和47年(1972年)土肥鉱業(株)は社名を土肥マリン観光株式会社と変更して観光事業会社として再出発し現在に至る。鉱山の跡地を利用した観光坑道は、歴史的遺産である坑道の一部を改造して、江戸時代の様々な坑内作業風景が理解できるように電動人形を配して一般に公開している。

長谷川 銈五郎

長谷川 銈五郎

大正11年 長谷川家 家族

大正11年 長谷川家 家族

鉱山全景

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坑内作業・削岩/坑内トロッコ

坑内作業・削岩/坑内トロッコ

鉱山事務所・講堂

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鉱石運搬船

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土肥金山

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